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‌コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会 の歴史

‌北米初の、禁域の生活を送らない女子修道会 であるコングレガシオン・ド・ノートルダム 修道会は、トロワ(フランス)出身の聖マル グリット・ブールジョワが17世紀にヴィル・

植民地の創立者及び総督であったポール・ド ・ショムディ・ド・メゾンヌーヴの要請によ り、フランス人や先住民族の子供たちの教育 に献身するために、1653年に大西洋を横断し ました。

マルグリット・ブールジョワとその 仲間たちが作り上げた学校制度は、彼女が生 きている間にもケベックのすべての地域へと 広がり始めていま た。教会は、少しづつコ ングレガシオン・ド・ノートルダム修道会に オンタリオ州、カナダ沿海州、そして米国で のミッションを呼 かけるようになりました 。

‌20世紀になると、シスターたちは日本、中米 、アフリカ、そして ランスにミッションを 設立しました。

‌今日、本会のシスターアソシエートは、 教育、社会・教育のため 奉仕、召命促進、 司牧宣教、社会正義や文化遺産の保護など、 多岐にわたる任務に従事しています。

‌マルグリット、その勇気と信仰:‌ニューフ ランスの開拓者のバイオグラフィー

出典:『マルグリット・ブールジョワとモントリオール 1640年-1665年(序章)』 パトリシア・シンプソン著

モントリオールの教育者

フランスのシャンパーニュ地方の古都トロワで生まれ育ったマルグリット・ブールジョワは、1653年に、カナダの小さな要塞都市ヴィル・マリー(現在のモントリオール市)に渡って来た。当時まだ生みの苦しみの時期にあったヴィル・マリーは、17世紀のフランスの信心深い人々の或る願望から生まれた町である。その願望とは、彼等が何よりも大切であると考えていたキリスト教の信仰を、「新世界」の人々と分かち合うことであった。彼らはこの目的を達成するために、新しいフランスと呼んでいた入植地のモントリオール島に共同社会を建設することを望んだ。そして建設の目的を、使徒言行録に描かれているキリスト教徒の理想を、先住民であるアメリカ・インディアンの人々にとって魅力的な方法で実現することとした。初代教会の信徒たちが、1世紀の地中海世界を改心に導いたのに倣って、彼らもアメリカ先住民を惹きつけようとしたのである。キリスト教徒の理想の実現というこの目的を達成するために、ノートルダム・ド・モンレアル協会が1640年にフランスで創設され、2年後の5月に、モントリオール島にヴィル・マリーという名の都市が創立されたのであった。

マルグリット・ブールジョワは、ヴィル・マリーの創立から11年後にこの町に到着した。彼女がフランスの入植地に赴いた目的は、植民地建設計画の一部を完成させるためであり、この計画の中には子供たちの教育も含まれていた。マルグリットは「百人隊」の名で知られる募集兵たちと共にフランスからやって来たが、兵士たちの目的は、最初の設立計画の放棄や立ち消えもやむなしという空気に対して、ヴィル・マリーを守ることであった。フランスからカナダに向かう航海では、マルグリットは、病人を看護し、死に瀕した人々を慰めていた。マルグリットと共に入植地に向かう船旅をした人々は、船上で既に彼女のことを「シスター」と呼び始めていた。このように、初めてヴィル・マリーに到着した時から1700年に没するまで、マルグリットは生涯を通じてモントリオールの人々の幸福と福祉のために献身している。

コングレガシオンの創立時

最初の入植者と共に在って、開拓の初期につきものの危険や困難、努力や希望を分かち合った。厳しい自然環境、敵、病気などの脅威にさらされることは、彼女も入植者たちと同じであったし、そればかりでなく、時に、敵対的になったり、無力な態度を示したりする教会当局と国家当局による脅威を前に、マルグリットは傷つき、苦しんだ。彼女は、新しいフランスのたくさんの庶民や、自分と家族の暮らし向きを少しでもよくしようと苦闘している貧しい入植者たちと自分を隔てるような、特別な待遇をされることを極力避けたし、できる限りそれを断っていた。

入植地の人々を助ける一方、マルグリットは自分の本来の仕事 ―モントリオールでの教育― にも取り組んだ。1658年春、放置された家畜小屋を改造して、最初の学校を開いた。またニューフランスにおける子供と女性の教育の仕事を永続させ、土台を築くために、囲制のない女子修道会を創立した。この共同体が行政上の認可と、特に教会からの認可を得るのはずっと後のことになってしまったが、1659年7月2日、マルグリットの最初の仲間たちが、ノートルダム・ド・モンレアル協会の募集に応じて新しいフランスへ移住する人々と同船したときに、現実にこの修道会は誕生していたのである。初期のモントリオールのフランス人指導者の中には、中世以降、女性たちが社会的に重要な役割を果たしてきた地域の出身者が数名いたが、マルグリットもその一人であった。モントリオールの計画目標に向かいながら、マルグリットは舞台裏のフランスにおいても、初期の入植地においても、女性として重要な役割を果たした。

マルグリット、女性、家族、神の民

この時代の記録からも明らかであるが、マルグリットの存在のお陰で、入植地における女性と男性との連携は協力的なものであり、対立するようなことはなかった。しかしマルグリット・ブールジョワは、歴史に名を残すような、卓越した人々のことだけに関心を持ったのではなかった。彼女は、入植地の普通の女性たちの重要性、妻となり母となる女性の手の中にカナダの未来が置かれていることを確信していた。メゾン・サンガブリエル博物館には、当時の女性の手仕事の様子が展示されている。

マルグリットにとって女性の教育は最も重要で、最優先すべきことであった。マルグリットの言葉や生涯をかけて果たした仕事には、「『理解すること』ができる人間になり得るなら、人は変わることができる。したがって社会も変えられる」という彼女の信念 が反映されている。『理解すること』は、すべての真の教育の目的である。

真の自由への教育:家族と協働する

マルグリット・ブールジョワと仲間たちが「ニューフランス」の子供たち(当初は少女と共に少年も引き受けていた)や女性たちに、まず第一に行った教育は、深い宗教心から湧き出た信仰教育であった。マルグリットの生涯だけではなく、後世に伝えられた彼女の言葉にも表われているとおり、信仰はマルグリットの教育の土台であり、何よりも第一に大切であったことは、旧約と新約の核心である二つの掟、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい」であった。しかしマルグリットにとって、教育とは、宗教教育を伝える以外にも、重要な役割を持つものであった。マルグリットが初めて教えた生徒は、裕福な家庭や実力者の家庭の子供ではなく、17世紀のモントリオールの入植者の子供たちで、幼いうちから自分と家族の生活を支え、新しい国を建設するという厳しい状況に直面していた。マルグリットは彼等がこの任務を果たせるように、仕事のよい仕上がりの大切さばかりでなく、努力を重ねることに重要性と価値があることを強調していた。

マルグリットの教育活動は、教室内での子供の教育だけではなかった。新しいフランスに未来の花嫁として移住して来た若い女性に手を差し伸べ、住む家を用意し、生活を共にして、彼女たちが新しい国、新しい状況に慣れ、適応できるようにと助けた。また貧しい女性たちのために講習会を開き、手工芸の技術を身につけさせ、それで生計を立てることができるようにした。マルグリットと仲間たちが初期の入植地で人々と密着して生活し、周囲の必要を敏感に察知し、それに応える才能を備えていたことで、ここでの教育は、教育を受ける人々の生活の必要によく応えた形を取っていた。

新しい修道生活の形:CND

マルグリット・ブールジョワは生涯の大半を、17世紀のヨーロッパの人々が世界の果てと見なした地で過ごした。しかしマルグリットは遠く離れた入植地に在りながら、この時代のローマ・カトリック教会の発展の歴史の中心的位置にいたのである。すなわち、女性のための、それまでとは違う形の奉献生活を定着させるという試みであった。17世紀まで、というより、かなり後の時代になるまで、教会の権威者の多くは、共同体生活をおくり、教会の奉仕に献身する女性は、必ず囲いの制度を守り、修道院から一歩も出てはならないし、外部の人間の修道院内への立入りも、一定の区域以外は許されないと考えていた。このような修道会の生活の安定は、寄付と持参金に頼っていたため、貧しい家の娘には、スポンサーを見つけない限り、修道生活への扉は閉ざされていた。マルグリットの目的は、カトリック教会の中で初めての、囲制度のない、経済的に自立した女子修道会を創立することだった。この新しい型の修道会は、同時代にフランスで発生し、経済的に自立できた修道会の大半が消滅してしまった中で、現在まで存続している。この修道会の特徴と持続性は、モントリオール史のいわゆる「英雄的な時期」のマルグリットの経験に負うところが大きい。修道会の創立にあたって、マルグリットはイエスの母マリアからインスピレーションを得ている。マルグリットにとって聖母は主の第一の弟子、もっとも忠実な弟子であり、初代教会で、教えを伝え、善行をなすことに取り組んだ女性であった。その姿にマルグリットは自分との一体感を感じた。聖母の姿は「初代教会」にあたるモントリオール初期を生きた自身の姿と重なり、マルグリットの心の中で成長していった。。

マルグリットの夢を生かし続ける

・・・マルグリット・ブールジョワは自分の生涯の「黄金期」として、どの時期を選ぶだろうか? 彼女の手記から、それは初めてモントリオールに到着した1653年から1665年まで、つまりポール・ショムディ・ド・メゾンヌーヴがフランスに帰国してしまい、カリニャン・サリエール連隊が到着するまでの12年間であることが窺える。連隊の到着は、モントリオール史の一時代の終わりを告げた。この「黄金期」は苦闘、危険、窮乏と困苦の時代であると同時に、希望と友情の時代、夢を分かち合う時代でもあった。マルグリットはモントリオールの入植者一人ひとりを知っており、その内の多くの者と親しかったから、マルグリットは彼らの人生に大きな位置を占めていたし、彼らもまたマルグリットの生活の中に大切な座を占めていたのであった。・・・1665年、ド・メゾンヌーヴは帰国したが、その時点でマルグリットの生涯が終わりを告げたのではない。・・・次の目標は、創始した修道会 ― ローマ・カトリック教会の中で最初の囲制度なしの女子修道会 ― を行政当局と教会に認めて貰うことだった。この修道会は、すでにマルグリットの存命中、フランス人だけではなく、北米に住むフランス人、先住民族、それに英国系の女性までを会員としていた。彼女たちはその教育の働きをモントリオールからケベックへ、また、セントローレンス河沿いに建設された小さな入植地へと拡げていった。

マルグリット・ブールジョワについての研究は、過去を理解するために役立つだけではない。この研究から私たちは他の重要な事実をも学ぶことができる。マルグリットは開拓者であり、教会と社会が切っても切れない関係にあった世界で、よりよい教会、よりよい社会を築こうと努力したリーダーであった。この世界で、マルグリットは、女性と子供の福祉に心血を注ぎ、「もし人々が互いを理解することを学ぶなら、必ず世界はよりよいものになる」ことを信じていたのである。私たちがつい昨日まで生きていた世界が失われてしまったと感じていると同様に、ヨーロッパから新しい世界に向かった17世紀の入植者たちは、ヨーロッパを取り返せない過去のものと感じたであろう。またアメリカの先住民にとっても、コロンブスの新大陸発見以前のアメリカは、取り戻せない世界、失われた世界になったにちがいない。マルグリット・ブールジョワは、モントリオール史の初期という古い、昔の時代に生涯を送った女性である。しかしその生き方は、現代の開拓者として、今の時代の困難に立ち向かう私たちに、多くのことを教えてくれるはずである。「人を理解すること」「人と共に在ろうとする心」の必要についても教えてくれるだろう。このようなことは、三世紀前も今も、等しく大切なことだからである。

‌バイオグラフィー