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シスター・アンナ斎藤Sister Anna Saito

追憶の記
シスターアンナ斉藤トミ子
コングレガシオン・ド・ノートルダム
(S.S.-Marie-Hostia)
1914年–2009年

1952年1月12日の誓願の際のシスター・アンナ斉藤

「日本のコングレガシオン・ド・ノートルダムの礎」であったシスターアンナ斎藤トミ子は、2009年1月31日午後5時50分蝋燭のともし火が燃え尽きるように、静かに御父の御許にかえりました。享年94歳6ケ月、初誓願宣立から63年に亘る修道生活でした。

帰天後彼女のごくわずかな遺品、書き残したもの、関わりのあった方々の言葉からシスター斎藤の辿った奉献生活の道のり、生き方など生前知りえなかったことに気付かされ、今新たな出会いが始まろうとしているかのようです。

7人兄弟の斎藤家の三女として海辺の町気仙沼に生まれ、子供の自由意志を大切に思う両親に育てられシスターは自立した闊達な女性に成長しました。それは、「信仰物語―コングレガシオン・ド・ノートルダムへの道」(本会の姉妹の信仰と召出しの物語を集録した冊子)から伺うことが出来ます。

「伯母の勧めで教会に行き始め、毎日学校帰りに弟と後先を争いながら教会に立ち寄りました。神様の話が大好きになり、30分位の話を夢中で聞き、朝晩の祈り、日曜日のミサも欠かさないようになりました。父母は子供達の自由意志を認め、良しと思うこと事はなんでも許しておりましたので、何の支障もなく10歳でビヤニック神父様から洗礼の恵みをいただきました。ミサ後、皆を代表して聖母マリアに身を捧げる祈りを声高らかに祈ったのも思い出の一つです」と。聖人伝に魅せられ「修道生活」に憧れて修道女になるという「夢」を持ち始めました。しかし、10歳で洗礼を許してくれた両親も入会を許可するということは容易ではなかったようです。彼女は次のように書いています。「修道院に入るのは、至難の業でした。先に姉が入会したのでもし、わたしも、となれば親子の縁を切るといわれました」

しかし、簡単にあきらめるシスター斎藤ではありませんでした。先ず、家を離れて生活することが夢の実現への第一歩と考えて、すでに聖母訪問会に入会していたお姉さんの助けもあってお父さんを説得し、カトリック八戸教会のイメルダ幼稚園に1937年4月から勤務するために家を離れることになりました。

コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会は1932年10月に来日し1935年5月に福島市花園町に修道院(現マルグリット・ブールジョワセンター)を建築し、教育活動を開始していました。1938年には、八戸に支部を設立したことで、シスター斎藤は本会を知ることになったのです。

修道生活に入るために幾多の困難を乗り越え、やっと入会となった頃、戦争の色濃い空気が日本中を覆い始めました。カナダ人のシスターには帰国命令が出され、いよいよ帰国の段になると、出航が無期延期となりました。花園町修道院は国に摂収されていて戻れないために、すでに帰国を余儀なくされていた会津若松の「無原罪聖母宣教女会」の修道院で軟禁生活を送ることになりました

シスター斎藤は周囲から他の修道会に入るか、実家に帰るようにとの勧めを受けたにもかかわらず、日本人で最初の会員となったシスター笹森トメ、シスター尾形キミと共に会津若松に行き、食料品や日用品を調達するなどしてカナダ人の姉妹を助けました。

第二次世界大戦中の言葉では言い尽くせないさまざまな困難、終戦後の幾多の試練を乗り越えることが出来たのは、神のみ摂理への信頼とどんな時にも主から目を離すことなく歩み続けた信仰があったからではないかと思います。

彼女は生涯を通して教会を愛し、世界の動きに関心を持ち世界平和を祈り続けました。学校教育をはじめ生活のすべての関心は福音宣教でした。聖マルグリット・ブールジョワの言葉の中で最も好んでいたのが次の言葉であったこともそれをよく表しています。

「神は地の果てまで火を灯されるであろう」

趣味の域を超えた書道では、静かに筆を運ぶ姿が今も目に浮かびます。カトリック松木町教会の聖母マリアのご像の後ろにある屏風は故人の筆によるものです。晩年はそれまで培ってきたもの、宗教のクラスも書道も人々との関わりも、健康も気力も少しずつ神様にお返しして行くことを受け入れなければならない苦しみにも堪えながらも、時にはユーモアと茶目っ気を覗かせる姿を今も思い出しています。

神様はシスター斎藤の生い立ち、性格、興味、関心、歩んだ歴史、そして弱さをも通して偉大なことを成し遂げてくださいました。神の摂理への信頼と堅固な信仰・主への愛と人々への愛・福音宣教への熱意は私たちに残してくださった遺産です。

シスター斎藤は前述の「信仰物語」の最後を次のように結んでいます。「聖マルグリット・ブールジョワは、一度ご自分の娘として拾ってくださったわたしを最後までお放しにならないと信じます。聖女のお言葉どおりイエス・キリストの御血の滴りを集めに、宣教に一層の熱意を込めて、世界の果てまで主のみ名が知られ、主の愛の火が灯されることを希望して働き祈っています」と。

今、シスター斎藤トミ子は復活の命の終わりのない喜びのうちに今までのように私たちを心にかけ、御父に取り次ぐために一生懸命に働いていてくださると思います。

ホスチア様 ありがとう

われらの管区の誇り、象徴、重鎮であったシスター・アンナ・斎藤トミ子について、語ることは山のようにあります。

先ず、シスター斎藤は、最初の日本人CND会員3名のうちの第1号です。そのことだけでも、特筆に価します。しかも10歳ごろから修道生活を望んだ彼女の生涯はCND入会直後に第2次大戦が勃発し、外国人であるカナダのシスターたちの修道会の志願者であることから、あらゆる邪魔や反対や迫害に遭うという劇的な展開となりました。

日本の官憲のみでなく、カトリック教会内部で、シスター斎藤たちの行動に不賛成で、帰宅を強く勧めた方々もおられたと聞きました。しかし、ついにカナダのシスターたちを見捨てることなく、戦時中の軟禁生活の窮乏と危険の中で、カナダの姉妹4人の食料調達をはじめ、生活のあらゆる面倒を見ました。

そういう中での修練が終わり、シスター斎藤を筆頭とする3名(シスター笹森トメ、シスター尾形キミ)は、修道誓願を立てる準備ができたのですが、戦争で外国との通信が隔絶されていたために、モントリオールの本部の許可を受けることができず、やむなくアスピラント期を含めた修練期7年間というまさに「特別製」の修道者になりました。

終戦の翌年、1946年5月に待ちに待った許可のもとに行われた誓願式が本人にとっても会全体にとっても、どんなに大きな喜びであったか、想像に難くありません。

誓願宣立後のシスター斎藤たちの生活は、物質的困窮と戦いながら直ちに多忙な使徒活動の日々となりました。カテキスタとして活躍したシスター斎藤は、修道名シスター・セント・マリー・ホスチアから取って当時の福島の人たちから「ホスチア様」と呼ばれていました。「ホスチア様」それは彼らの心に憧れと尊敬と親しみをかきたてる名称でした。

カナダのシスター方も巧みな日本語で立派な布教をしておられましたが、日本語を母国語とし、日本の文化や制度に通じている初の会員ということで、カナダの会員からも日本の社会からも重宝され信頼される存在でした。当人にとっては、かなり心理的負担でもあったろうと推察されます。

後日、その負担が嵩じてか、心身の健康が思うようにまかせず、人知れず苦しんだこともあったようです。でも、「ホスチア様」はなんと言っても信仰一筋の、強い修道者でした。体は小さくても、偉大な人でした。

シスター斎藤から霊的な恩や重要な助言を受けた人、生涯にわたる影響を受けた人は数え切れません。また、シスターの、教会と典礼を一途に愛する心、ご聖体へのあつい信仰、ユーモアのセンス、独自の愛情表現などに、わたしたち後輩のシスターは、まことに多くを学びました。

シスター斎藤、本当に、本当に、ありがとうございました!